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楽しみの社会学

ゲームの脳汁学。

 楽しみの社会学: 本 楽しみの社会学: 本

「脳汁」がどのようなときに出るのかを社会学の面から突き詰めており、「こういう本を待っていた!」って感じ。

この本の中ではこの脳汁モードをフロー状態と言っているわけだが、まずはチェス・ロッククライミング・バスケ・ダンス・その他創作活動といった趣味の活動に対象を向けて調査を行っている。
いずれも興味深いのが「フロー状態では自分が全てを支配している感覚」というやつだ。
自身の技量と挑戦する対象が良バランスにある場合に、このフロー状態が発生し、プレイヤーはそれ以外の全ての感覚・無関係な思考を完全に無くすレベルにまで集中する。
逆にバランスが取れていない場合は、退屈になったり、無意味に感じたりと、全く集中できない状態になってしまい、フロー状態は現れない。
そしてこのフロー状態こそが「楽しみ」の本質であり、行為の差や難易度バランスによって楽しみ=フロー状態に入るかどうかに差が出るが、人間が内発的報酬(いわゆる自己満足)を欲する基本部分に大きな違いはないことを突き詰めている。

実際、前述した趣味系だけではなく、当然、仕事でも人間はフロー状態を感じてしかるべきという観点から、外科医のオペに対しても対象を広げ、やはりフロー状態の経験が存在することを明らかにしている。
特に面白いと思ったのは、熟練したトップクラスの外科医になると、フロー状態では時間すら意のままに操る感覚まで持っているという点だ。
全てが自分の思い通りに動く状態が極限までいけば、確かに時間というものの存在が自身の行動の目安ではなく、行動の結果として時間が動くという感覚になるだろう。
「人はいつか時間さえも支配できるわ」といったララアの言葉も、あながち嘘ではなかったということか(笑)

さらに話は日常に無意識に存在する微小なフロー状態についての調査に入り、このマイクロフローというやつを無理に抑止した場合の意識変化についても、面白い結果を得ている。
マイクロフローの例としては、いわゆる鼻歌であったり、指を鳴らしたり、鉛筆回しであったり(笑)、と日常生活において、特に意味は無いがなんとなく楽しくて行っている行動が挙げられる。
こういった行動を意図的に抑止した場合、その抑止が長く続くと、人間はしだいにイライラし始め、精神的不調をきたし始めるという結果だ。
意図的に抑止するという行為自体が、その本人に対してのプレッシャーになるだけでなく、空虚を埋めるすべを無くすこと自体、やはり不安定になるのだろう。

終章はまとめ的な部分&著者の意見が書かれているのだが、特に子供にとっての楽しみの意義について書かれている部分が興味深かったので引用しておく。
我々の視点から見た場合、より重要なことは、現在子供たちがその中で成長しつつある典型的な環境が、行為への挑戦の機会を与えるようには設計されていないということである。行為の剥奪、従って、フローの剥奪は、自由な創造の予知、自由な運動の予知、真の目標を探索し達成しようとする余地を排除するような成長環境が生み出したものであるに違いない。同時に、社会的価値が、子供の自分の行為についての解釈に影響し始める。何の具体的な成果ももたらさない努力は、時間の浪費という烙印を押され、子供は外発的報酬をもたらす課業に精出すようにのみ奨励される。リトル・リーグやピアノのレッスンは自分の技能に対する自信を子供に与えるためにではなく、これらの技能を観衆や聴衆にひけらかすために組織される。楽しさに対する我々の一般的な無知のゆえに、我々は彼らの成長を支える行為への挑戦の機会に子供たちが合致しているか否かを、十分時間をかけて確かめようとしない。
自分がガキのころは、もちろんファミコン大好きっ子ではあったが、かといって、その他の選択肢が存在しないわけじゃなかったよな。
山を駆け、川を泳ぎ、傷だらけになったことで、「本当にヤバイ」という限界を知ることができた。
いつからこんなに選択肢のない世の中になったのかわかんないが、現状ではまだ田舎の生活のほうが選択肢があるってことなんだろうか?
まあ、それも物騒な世の中になってるせいもあってダメなのかもしれんけど……
内発的報酬から来るフロー状態を知らない層に、そもそも「楽しい」ということをわからせること自体が不可能なのだろうか?
少なくとも、内発的報酬を得るためのフロー状態に必要な「バランスの取れたリスク」を、ただの面倒な作業と捕らえてしまうようでは、ちょっと難しいゲームは受けそうにないか……

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