ルイスの悲劇
リヨン併合後、その野心を潜め時を待ったルイスであったが、機会はなかなか訪れなかった。
伯爵としての彼の名声は上がっていたが、それはあくまで伯爵としてである。
そして何より、遅参して戦果の無い君主プロヴァンス公の名声に繋がることに、彼は激しい苛立ちを覚えていた。
そのせいかたびたび気がふれるようになり、一度はプロヴァンス公に対して「自分はヴォーグ公爵である」といった主張したりと危うい行動が目立ち始めていた。
さらに彼にとって悲劇であったのは、生まれた第一子の男児エティエネが生後まもなくして死亡したことであろう。
悲嘆に暮れるルイス伯がもはや限界とプロヴァンス公からの離反を考え始めた時、隣国のフォレズ伯が先にプロヴァンス公から離反したのである。
彼は真っ先にフォレズに対して戦線を布告し、蓄えていた兵力でこれを圧倒。
10年の沈黙をへて、ようやくフォレズを新たな自国領としたのであった。
さらに軍備を拡充して、いよいよプロヴァンス公からの離反を考えていたルイス伯であったが、翌年に肺炎を患い、31歳という若さでこの世を去った……
ルイス伯の若すぎる他界はその子ルイスII世にとっても悲劇であった。
8歳という若さでその地位を父親から譲り受けた彼は、亡き父・祖父を支えてきた重臣たちによって無事に成人を迎えたが、その時には半数以上の重臣がこの世を去っていたのである。
血を引いているとはいえ、自身が父や祖父ほどの器を持っていないと感じていた彼は、今までの領土拡張方針を改め、内地の整備・充実に励むことを第一に考えた。
農民・市民の権力を高めて収益を向上させる一方、騎士や宗教家からの不満が出ぬよう、彼らが望む教会や騎士団詰所を建築するといった風にである。
実際、リヨンとフォレズに関しては戦禍による疲弊が激しく、領土拡張方針を続けていたとしても、この地域の復興は必須だったであろう。
また、外交的には積極的に諸侯との婚姻をまとめ、不足していた人材を再度若返らせるよう努めたのである。
その地位について60年目の秋。
ルイスII世の元に急な知らせが飛び込んできた。
レマン湖の北、ノーダガウ伯がドイツ帝国から離反し、皇帝の不況を買ったという話だった。
本来なら隣国の上ロレイン公あたりが征伐に向かうはずが、フランスとのにらみ合いのために兵がでないとのこと。
68歳となっていた彼に、ようやっとの初陣が訪れたのである。
2600の軍と息子ベルナルドを引き連れ、北上を開始したルイスII世であったが、彼は戦をするという人には生まれなかったらしい。
レマン湖の北、バーンの宿営地にてルイスII世死亡。
軍はベルナルドを新たなヴォーグ伯として北上を再開した……